過去の薀蓄 その一


鬼の型(姿勢)
 鬼がするオーソドックスなスタイルである右足は曲げて左足を伸ばし、鬼棒を右足の膝の先に突いて、左手の掌を前に向けて左耳の側に持っていく姿勢はどこから来たのでしょう。
 鬼は元来目があまり良くない生き物なのだそうです。従って、鬼は状況を判断するのに耳と鼻を使って周りをさぐります。よく私たちも人の騒がしいところで人の話を聞くとき耳に手を当てることがあると思います。まさにこのしぐさを鬼がしているわけです。これが左手の秘密です。
 それから鬼というと頭を細かく動かす所作があります。これは一般的に「頭(ず)をきる」といいます。これは先に述べた耳のこともありますが、よく鼻で匂いを嗅ぐために動かしています。人も誰かが話しているほうを向きますね。それと同じです。
 実際に塵倫などの鬼の組み舞がある時は、舞人同士でしゃべりながら舞っています。それに合わせて頭をきったり、左手を動かしたりするようです。特にや〜まちゃん、金時さん、福ちゃんの三人で塵倫をやる時は打ち合わせなしで、その場の雰囲気でしゃべりながら舞うそうです。

鬼の基本的な型

塵倫:「もう一曲鬼囃子聞くで」 小鬼:「OK!」


急ぎ(膝折りとやまがり)
 前回は鬼についてでしたので、今回は神についてです。
 一般的に宮乃木の演目の神は花道から出て神楽歌に合わせて三方拝みで舞い、口上になり(花道口上の場合も同様)、その後の舞は「急ぎ」と呼ばれます。この「急ぎ」はだいたい膝折り、やまがり、順逆のかけで構成されています(紅葉狩のように膝折りの前に順逆のかけが入ることもあります。この場合は神楽歌の前歌に合わせて舞います)。
 ではこの「膝折り」と「やまがり」にはどういう意味があるのでしょうか。昔の人は旅に出る際、わらじをはいていました。このわらじのひもを結んでこれから旅に出ようというのを表しているのが膝折りです。
 現在ではほとんどの神楽団は膝折りの際に片方の足を伸ばしていますが、昔は立て膝のような体勢だったそうです。まあ、先に述べた膝折りの意味を考えれば当然でしょうが。
 そして、他の神楽団はどうだかわかりませんが、「喜び」では膝折りをしないことになっています。これは鬼や賊を成敗してもう帰るだけなので、そういうふうに気合を入れる必要はないからです。
 一方やまがりは、やまがえりやとんぐり、水車などというふうに呼ばれることもあります。これはその名のとおり山を登ったり降りたりして目的地に急ぐという意味を表しています。

膝折り(厳密に言えばさぐり)

やまがり


塵倫の鬼が3匹の理由
 前回まではすべての演目に共通することでしたが、今回は個々の演目の中でも塵倫を採り上げます。
 塵倫の筋は、異国から攻め来る軍勢の中に塵倫といい身に翼があり、虚空を飛行し、神通自在の強敵がいて、官軍の中には塵倫にかなう者はいませんでした。そこでときの天皇・十四代帯中津彦(たらしなかつひこ)天皇が従者高麻呂を従えて、天照大神の御神徳と神変不思議の弓矢の威徳を以ってこれを退治するというものです。この演目は梶矢系よりもむしろ山県郡の六調子の矢上系で一般的な演目で、競演大会などでも多数舞われています。
 そこで今回の本題に移るわけですが、矢上系では塵倫のみが登場しますが、梶矢系では塵倫を大将にして二匹の小鬼が登場します。なぜ梶矢系は小鬼が登場するのでしょうか。
 これは次のようなことを表していると言われています。塵倫は漢の国、小鬼は属国となっている百済と新羅の国である、ということです。元寇の場合もそうですが、古くより中国が他国を攻める場合、中国の兵に加えて、属国の兵を連れて行くことが多いです。しかも、属国の兵は先鋒として使われます。塵倫でも小鬼は先に出て、先に退治されます。
 矢上系は1匹、石見神楽は2匹、梶矢系は3匹と伝承されている地域によって鬼の数が変わるというのは面白いですね。


御幣の意味
 今回は手物のお話です。手物の中でも神(しん)にとっては最も重要な御幣についてです。
 御幣は神楽では神の威徳や霊力、神そのものを表現したり、清め払いという本来の意味でも使われています。従って、基本的に御幣を持つのは神のみです(一部例外で姫が持つ場合もありますが)。
 さて、宮乃木神楽団では御幣にはあるものに例えられています。それは、稲穂です。
 昔、神楽は秋の収穫を感謝して、農家の男たちが舞っていたものでした。稲穂というものは地面を引きずったり、乱暴に扱ってしまうと、穂についている米が落ちてしまいます。従って、稲穂は丁寧に扱わなければなりません。
 ですから、当神楽団では御幣は地面につけたりしないよう扇で御幣を受けながら舞います。このように舞うことで、稲穂から米が落ちないようにするのです。当神楽団では最も重要な手物と言っても過言はありません。
 ちなみに、当神楽団では先に三角の紙を挟んだものと、長方形の紙を挟んだものを使用します。前者は一般的に神が持ち、後者は三世ヶ託や安倍晴明などといった翁系の神が持ちます。
 御幣に挟む色紙も役の位によって変わります。例えば、頼光は紫、児屋根は緑、太玉は赤、三世ヶ託は白などです。唯一例外は安倍晴明で下の写真のように、白・赤・緑・黄・紫の五色を使っています。これは陰陽道の思想である陰陽五行思想からきているものです。


細菌との戦い
 今回は演目の「鍾馗」からのお話です。
 「鍾馗」は須佐之男命が唐国(中国)から渡ってきた悪鬼を退治するという内容です。その悪鬼はただの鬼ではありませんでした。四百四病の一切の病を司る大疫神だったのです。
 そこで須佐之男命が持っている手物に話は及びます。須佐之男命が持っている二つの手物には、須佐之男命の二つの性質を表わしていると言われています。つまり、 右手の剣は荒ぶる魂を表わし、左手の茅の輪は人民を助けようとする優しい性質を表わしています。
 しかし、宮乃木の場合は、左手の茅の輪は今で言う顕微鏡を表わしていると教えています。退治される大疫神はその名の通り、病原菌の元締めといった存在です。従って、普通の人の目には見えません。須佐之男命にしても例外ではありません。そこで、茅の輪を使って大疫神を探し出し、その荒ぶる魂で大疫神を調伏する訳です。
 乱暴者として高天原を追われた須佐之男命ですが、八岐大蛇を退治したり、大疫神を退治したりと天下ってからは人民のためにつくす偉大な神様になったところが面白いところです。





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